「ノー」と言える人には、奥底に強い「イエス」がある——。
営業、マーケティング、金融、人材、そしてAI事業。回り道にも見えるキャリアを歩んできた株式会社KAKUKATA代表・林英明が、いま哲学を語る理由。京都大学で教育哲学を専攻し、ニーチェに惹かれ続けてきた男に、社名に込めた想いと「ジョブ・キャリア・コーリング」という問いについて聞いた。
ノーと言える人は、何が違うのか
——最近、「奥深くのイエス」という言葉をよく使われていますね。
イーロン・マスクの話が入り口でした。彼は目の前のことに平気で「ノー」と言えるじゃないですか。あれは性格が強いからじゃなくて、奥底に強烈な信念——「イエス」があるからだと思ったんです。逆に言うと、奥深くのイエスが曖昧なままだと、目の前のことにノーと言えない。評価とか、期待とか、その場の空気に流されてしまう。
——ご自身にも、その「流される」経験が?
ありますね、はっきりと。自分は相手が言ったことに対応したい、という中動的なところがあって。それ自体は悪いことじゃないんですが、「自信を持って言えるかどうか」と表裏一体なんですよ。奥のイエスをまだ徹底的に揉んでいないから、手前のノーが言えない。
ジョブ・キャリア・コーリング
——その整理に使っているのが「ジョブ・キャリア・コーリング」という三分類だそうですね。
海外の研究にある分類です。ジョブは生活の手段としての仕事。イエス以前に、そもそも問いが立たない段階です。キャリアは昇進や達成、外的評価を志向する段階。ここが厄介で、損得や評価を気にして、本心はノーでもイエスと言ってしまう。そしてコーリング。使命とか、内発的な意味の志向です。内なるイエスが明確だから、それ以外にはっきりノーと言える。コーリングって語源的には「神から呼ばれている」ということなんですよね。
——キャリアを否定するわけではない?
そこが大事なところで、キャリアとコーリングは対立ではないんです。むしろ「対立していると捉えていること自体が問題かもしれない」というのが、いまの結論。程よく稼いで、時間とお金を自分のコーリングに投下できるなら、両方やればいい。外的成功と内的使命は、両立できる。

回り道の履歴書
——キャリアを振り返ると、どんな「イエスとノー」がありましたか。
後悔から話すと、まず高校受験です。パソコンが好きで、情報科のある高校に行こうとしたんですよ。偏差値は50もないところ。親に止められて普通科に行きました。いまの時代を見ていると、あのままエンジニアの道に進んでいたら、AIを作る側にいたかもしれないなと想像することはあります。
——社会人になってからは。
Yahoo!時代は、リモートで月30時間くらいしか働いていないのに目標を190%達成していました。10社担当して、1時間のミーティングと1時間の準備。効率化が得意なんです。ただ、それをアピールしなかった。成果を自分で小さく見積もる癖があって。
一番大きいのは、外資系大手ファンドの内定辞退ですね。20代で年収数千万も見える世界。受かったのに、入社1週間前にメール一本で断りました。いまでも時々思い出します。
もうひとつは人材ベンチャー時代。20人規模の会社で中心的なポジションにいて、社長にもすごく大事にされていた。なのに、不満を持つ同僚たちに流される形で、同業他社に移ってしまったんです。後から、株を渡す話があったと知りました。その会社は翌年上場を控えていた。……いまでも普通に後悔していますよ。良くないやり方をしたなと。
——その振り返りから出てきたキーワードが「右腕になれなかった」。
そうなんです。対話の中で浮かび上がってきて、めっちゃあるなと。信頼されて、任されて、それでも最後の一線で自分のイエスを言葉にできずに離れてしまう。これがキャリアに通底するテーマだったんだと思います。だからこそ、いまは奥深くのイエスを言語化する側——ビジョニングをやりたいんでしょうね。

もう一つの挫折 — 京都大学教育学部教育哲学専攻
——そもそも哲学との出会いは大学ですね。
京都大学の教育学部で、教育哲学専攻でした。ただ、格好よく聞こえますけど、実はこれも一つの挫折なんです。本当は心理学を専攻したかった。でも体育会のアイスホッケー部が忙しすぎて、実験のある心理学は物理的に無理で。それで「一番楽だった」哲学専攻にしたんです。
——消去法だった。
消去法です。ただ、興味はちゃんとあったし、人気がなくてユニークだというのも気に入っていた(笑)。そして皮肉なことに、勉強しなさすぎたからこそ「逆にちゃんとやった方がいいんじゃないか」という宿題がずっと残った。博士やトップの研究者にはなれない、という劣等感もいくらかあります。でも、だからこそいまも哲学を学び直したいし、この歳になって全部つながってきた。挫折として選んだ場所が、結局コーリングの入り口だったんですよ。

なぜニーチェなのか
——数ある哲学者の中で、なぜニーチェなんですか。
出会いは、大学の哲学専攻よりずっと前なんです。高校の頃か、もっと前。本から入ったのでもなくて、「神は死んだ」みたいな言葉の断片に引っかかって、気づいたら自分で追いかけていました。ニーチェって、ああいう過激な言葉の人として引用されがちですけど、読んでいくと真逆で、僕にとっては「肯定の哲学者」なんです。
——一番好きな概念は。
永劫回帰ですね。この人生が、何ひとつ変わらず無限に繰り返されるとしたら——それでも「もう一度」と言えるか、という問いです。さっき話した後悔も、全部そのままです。外資ファンドをメール一本で断ったことも、右腕になれなかったことも、消えずに無限に繰り返される。それごと肯定できるか。だから僕にとって永劫回帰は、思考実験というより覚悟を問われる言葉なんです。奥深くのイエスって、突き詰めればあの問いに「イエス」と言えるかどうかだと思う。
——キャリアの決断の場面で、ニーチェの言葉が頭にあった瞬間はありますか。
正直に言うと、その場ではないんです。決断の瞬間はいつも必死で、哲学どころじゃない。でも、後から重なってくる。人材ベンチャーを流されるように離れたとき、自分は永劫回帰に耐える選び方をしていなかったなとか。消去法で選んだはずの京大の哲学が、実は伏線だったなとか。そして独立して社名を決めるとき、戻ってきたのがやっぱりニーチェだった。
KAKUKATAという社名のキッカケでもある、ニーチェの著書『ツァラトゥストラはかく語りき』に「精神の三段変化」という話があります。精神はまずラクダになり、ライオンになり、最後に子どもになる。ラクダは「汝なすべし」を背負って砂漠を歩く。優等生マインドで、期待に応え続ける段階です。ライオンはそれに「ノー」と言って自由を勝ち取る。でもライオンはまだ、新しい価値を創れない。最後の子どもだけが、遊びながら「聖なるイエス」を言える——自分の内側から価値を創造できる。
これ、ジョブ・キャリア・コーリングと同じ構造だと思うんです。僕がずっと言っている「奥深くのイエス」は、ニーチェの言う子どもの聖なる肯定なんですよ。評価に応えるラクダでも、反発するライオンでもなく、自分の遊びとして世界にイエスと言う。そこに辿り着きたくて、ニーチェを読み返すんだと思います。
——この記事の写真も、ニーチェをイメージして撮ったそうですね。
哲学って、文字で説明しても伝わらないんですよ。難しいから。だから写真なんです。言葉にできていない部分は、イメージで語るしかない。このページの写真が全部モノクロなのも、同じ理由です。
社名に込めた「かく語りき」
——社名の「KAKUKATA」にも、ニーチェが入っているそうですね。
三つの意味を重ねています。ひとつは「各型(かくかた)」。それぞれの事業に最適な「型」を提供する、という仕事の核です。型という言葉は、剣道に打ち込んでいたこともあって、守破離の精神につながっている。型を学び、型を守り、型を超える。
ふたつめは「各方(かくほう)」。それぞれの方向性を共に見つける、という伴走の意思です。型を渡して終わりではなくて、その先の唯一無二の戦略までを共に創る。
そして最後が「かく語りき」。『ツァラトゥストラはかく語りき』から取りました。すべての事業は、思想から始まる。だから、単なるコンサルタントではなく、共に考え、語り、超越を目指すパートナーでありたい——社名に、そう込めています。
——守破離と、さっきの三段変化も重なりますね。
そうなんです。守はラクダ、破はライオン、離は子ども。この記事で話してきたことが、実は社名に全部入っていたんですよ。

哲学とアート
——哲学と並んで、アートという言葉もよく出てきます。
コーリング的な表現って、突き詰めるとアートなんですよね。ロジックや効率化は得意で、それはキャリア側の武器です。でもそれだけだと、自分で言うのもなんですが「二流のコンサル」で終わってしまう。内側のイエスを形にする行為——それがアートであり、僕の場合はビジョニングなんです。
——ビジョニングは手法としてもアート的ですね。
ビジョンボードという手法があります。自分の好きなもの、目指すものを視覚化して貼り出して、ずっと見える状態にしておく。逆に「絶対に違うもの」を挙げて自分を際立たせるやり方もある。言語とイメージの両方で、奥深くのイエスを浮かび上がらせる。組織や個人の志を可視化する仕事は、キャリアの中でずっと好きでやってきたことでもあるんです。
全部つながっていた
——回り道に見えて、収斂してきている。
営業もマーケも金融も人材も、体育会も哲学専攻も、全部いまにつながっています。いろんなビジネスモデルを見てきたからAIの事業ができるし、組織の志を考え続けてきたからビジョニングができる。エンジニアになり損ねた僕が、AIを使う側の先頭にいる。心理学に行けなかった僕が、対話で人の内面を扱っている。
奥深くのイエスは、まだ完全には言語化できていません。でも「ないよりの、多分ある」から、「ある」に変わってきた。それを確かめるために、この仕事をしているんだと思います。

(了)
写真:ビジョニングセッションにて撮影
© KAKUKATA Inc.
